科学的論証の壁


ロハスメディカルブログ - 福島県立大野病院事件第九回公判 (速報)/(速報2)/(速報3)


論点が証人の信用度とか取り調べの妥当性といった,「真実」の究明とは違う方向に向かっているような気もしてきました。裁判の手続きの中では大事なことなのかも知れませんが,このエントリではあまり触れないでおきます。個人的に今回の法廷で印象に残ったのは次のやりとりです(医師は引用元では実名。強調は引用者による)。

検察: ●●医師は、超音波検査を行ったが、所見を認めることができなかったということですか
証人: 疑う所見がなかった、のであって、見つけることができなかったのではないでしょう
検察: でも、実際は嵌入胎盤があったのですよね
証人: ありました
検察: でも、その像を見つけられなかった
証人: なかったのです
検察: どういうことですか
証人: 100%診断できるものではありません。所見がなかったから、疑わなかった、ということです。
検察: 検査をしても、嵌入胎盤があった、という一つの症例だということですか
証人: 診断効率は何をやっても100%ではない、一応検査をしたが、所見がなかったが、しかし、病理診断で嵌入胎盤という症例だと考えます


この証言を聞いて「やっぱり見落としていたんでしょ」と思うひとと「それなら仕方ないな」と思うひとの間には高い壁があるように思います。要はプロスペクティブかレトロスペクティブか,あるいは演繹か帰納かという話なんでしょうけど,このあたりを的確に説明した文章が日経メディカルの医療に司法を持ち込むことのリスク(要登録)という記事*1の中にあったので引用します。

司法、政治、メディアは物事がうまくいかないとき、規範や制裁を振りかざして、相手を変えようとする。これに対し、医療、工学、航空運輸など専門家の世界では、うまくいかないことがあると、研究や試行錯誤を繰り返して、自らの知識・技術を進歩させようとする。あるいは、規範そのものを変更しようとする。

科学的真理とは、対象と方法に依存した仮説的真理である。真理の表現方法、精度、限界は方法に依存している。司法は、この仮説的真理という醒めた見方を共有できないため、白か黒かを無理やり決めようとする性癖がある。さらに規範が適切かどうかを、現実からの帰納で検証する方法と習慣を持たない。このため規範が落ち着いたものにならない。


裁判官は壁を越えられるのか,注目したいと思います。

 

*1:違う意味でも読み所が多い記事です。id:physicianさんがエントリで紹介されています。