価値観の変遷


医師,とくに産科・小児科・外科系の労働環境が劣悪であることが取り上げられるようになったのはこの数年でしょうか。非医療者だけでなく,医師の価値観が大きく変化したのは確かです。まともな労働環境にしないと医療業務のリスクが上がることは考えてみれば当たり前のことですが,労働基準法など無視して当たり前,という先生方,特にそれを「正しいやり方」だと信じてきた方ほど受け入れがたいのだと思います。現実問題として,新しく入ってくる医師がいなくなって診療科の存続そのものが危うくなり,ようやく考えを変えたという面もあるのかも知れません。

壊れゆく医師たち (岩波ブックレット)

壊れゆく医師たち (岩波ブックレット)

産婦人科の医師はかつて報酬がいいほうだったのです。お産をしたり,自由診療の部分があったためです。最近は忙しさに比べたら全然よくないのです。ますます若い医師から嫌われるような状況になったのですが,私は,報酬のことはあまり言いたくないのです。私の個人的な考えかもしれませんが,医師は,大金持ちになるべき職業ではないと思っています。少なくともちゃんとした生活ができるだけの,並の給料はほしい。プライベートの時間も持ちたい。いまの若い人はそう考えている人が多いと思います。医師は聖職だという意識が強過ぎるのはその通りで,私たちの時代はそういう考えで良かったのですが,今は違います。「患者さんの具合が悪いのに何で帰るの,ちゃんとみていけ」あるいは,「自分たちのやる診療を,君たちも残って勉強していけ」と,そういう教育が私たちには染みついていますからそれでいいのですが,若い人はそうではありません。だから,若い人たちに昔と同じやり方を強要したらますます志望者は減ります。ちゃんと休みもあげて,大金持ちになる必要はないと思いますが,アルバイトをしなくても家族を養っていける給料を出す。そこにいかないと産婦人科医師は増えてこないですよ。その改革をどうしてもやらなくてはいけないと思っています。

産婦人科医師不足の現状とその原因 岡井崇 p17-18


この本でこの部分だけを引用するのはあまり適切ではないかも知れませんが,岡井先生が価値観の変遷に葛藤を感じているのが伝わってくる一節です。岡井先生も充分ご承知の上で仰っているのだと思いますが,「若い人」にかつてと同じやり方を強要できないのは,単に気風や教育という要因以外にも,医療費抑制政策や,患者側からの医療ニーズの増大によって要求される業務そのものが増大しているからでしょう。もともと無理をして維持してきたところに,さらに負荷をかければいずれ必ず崩壊します。

確かに「鉄は熱いうちに打て」という教育方針は医師としてのキャリアを正しく方向付ける上で大事なことですが,ある程度基礎が固まったあとの専門性の高い業務に集中すべき時期になってもなお奴隷労働に縛り付けられる現状は,百害あって一利なしだと思います。新臨床研修制度には研修生の労働条件を改善するという建前がありましたが,現実には研修医以外の,特に中堅どころの医師にしわ寄せが集中しているだけで,結果として大量逃散を招いている,という話をあちこちで聞きます。研修医にしても,目の前にいる疲労困憊して余裕のない中堅医師が自分の将来の姿だと想像すると,夢も希望も持てないのではないでしょうか。

職場の一管理者がその状況を改善するのは限界があるんでしょうけど,そもそもそういった状況すら把握できずに「俺たちの若い頃はこんなこと当たり前だった。なんでお前たちには出来ないんだ」という考えの医師を上司に持ってしまうようだと,あまりに救いがなさ過ぎると思います。