読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

報道機関による「事実」の取捨選択

報道


「事実」の報道と「意見」の発表の混同 - MRIC by 医療ガバナンス学会より,本題は朝日新聞がんワクチン報道問題ですが,報道の一般論に言及した部分より引用します。

 芦部教授や最高裁決定が述べたように、「事実」の報道の自由は国民の知る権利に奉仕するものとして、憲法第21条の表現の自由に含まれ尊重される。しか し、逆に言えば、意見の発表や思想の表明のために、報道する事実を恣意的に取捨選択してはならない。国民が意見や思想を形成する素材となる前提事実の認識 に誤認混同があったならば、国民の知る権利に奉仕するという報道の自由の本旨に反してしまう。

 朝日新聞は、例えば日本医事新報のような専門紙ではない。通常一般の国民が読む一般紙である。そして、その第1面は、意見や思想よりも、まずもって重大 な事実を報道するものと一般に思われている。意見や思想にリードされて事実を取捨選択することが否定されるわけではない。とはいえ、事実は適切に報道しな ければならない使命を報道機関は負っている。そして、その適切な報道事実の上に、意見や思想が発表され表明されるべきものであろう。

「事実」を恣意的にねじ曲げてはならないというのは正論ですが,報道すべき価値のある情報を選択する行為そのものから主観を取り除くというのも難しいように思います。とすれば引用部分の後段にあるように,「意見や思想にリードされて事実を取捨選択することが否定されるわけではない」けれども,その選択基準は「適切」であるべき,というあたりが落としどころになるのでしょう。ただし,今度は何をもって「適切」なのかという問題が持ちあがることになるわけですが。

おそらく報道機関としてはみずから「事実」を取捨選択している基準は「適切」であり,中立公正な立場を保っているというタテマエなのでしょうけど,たとえそのつもりであっても,人間がやることですからどうしても一定の認知バイアスが生じて,タテマエと現実のあいだに乖離が生じることになります。自分自身を振り返ってもそうですが,そうした状況では乖離があることすら目に入らなくなるわけです。

最近の話題では,総務省の会見においてフリー記者が独自の動画中継を求めるという一件で,記者クラブ側の回答に

そこに映っている人の発言・質問などが、本人の意図した内容と異なって、一部だけ使われると全体の真意が伝わらないこともある。それを危惧する意見があった。

記者会見・記者室の完全開放を求める会 総務省記者クラブからの返答

という一節がありました。「事実」を取捨選択することが問題である,と主張するのであれば,記者クラブ側が自分自身もまさにそうしていることに関しては無条件で「適切であり問題ない」ことにしておかないと報道機関の自己否定になってしまいます。

また先日,広島市長が退任会見をおこなわず動画でコメントを公表したという一見に関する報道では,

民主党小沢一郎元代表が動画配信サイト「ニコニコ動画」の番組に出演するなど、既存のメディアと距離を置く政治家が目につく。この傾向について、橋元良明・東京大大学院教授(コミュニケーション論)は「編集されたり、批判的なコメントを加えられたりすることを嫌がる権力者に都合のよい手法」と分析。

asahi.com(朝日新聞社):秋葉・広島市長、退任の弁「ユーチューブで」 会見拒否 - 政治

と「識者」のコメントを引用している(このように「識者」のコメントを引用することはまさに恣意的行為ですよね)のも,自分自身が「編集」したり「批判的なコメントを加え」たりすることが権力者に都合のよい手法には当たらず,問題にならないという前提なのでしょう。

こういうダブルスタンダードを判ったうえであえてやっているんじゃないかというツッコミも可能ですが,当方としては,判っていればもう少し上手に隠すなり誤魔化すなり努力がされているように思いますので,ここではあえてタテマエと現実の乖離を認識していない結果としてのコメントであると解釈しておきます。

「事実」を取捨選択することで時として不適切なバイアスが加わることは避けられないのは,既存の報道機関であってもネットメディアであっても同様でしょう。問題は,自分たちの取捨選択は適切であって中立公正を保っている,という前提を無条件に置いてしまうことです。読者や視聴者の立場としては,こうした前提条件に乗って「公正中立であるべき」と要求するよりは,「事実」が取捨選択されている以上何らかのバイアスは存在するはず,という前提で受け取った情報を吟味するほうが現実的な判断であるように思います。