胃瘻造設と意思決定2


少し前の話になりますが,野党幹事長が胃瘻からの経腸栄養をおこなっている光景を「エイリアン」と表現したことが報道されました。いつもの如くマスメディアの編集を経た発言をそのまま受け取るわけにはいきませんが,好意的に解釈すれば,そうした実状をよく知らないひとが受ける「不自然さ」が率直に表現されたということになるのかもしれません。それにしてももう少しましな表現がなかったんだろうかとは思いますが。

これをきっかけに胃瘻の是非に関する議論を…という意向もあったようですが,個人的にはどうにも引っかかるものがあります。胃瘻とはあくまで患者さん個人が受ける治療の選択肢のひとつであって,患者さんあるいはその家族の人生観や,家庭環境や経済力といった制約因子によって意味合いが変わってきます。

胃瘻をあえて選択せず経口摂取を続けて穏やかに息を引き取った,といった例がよく引き合いに出されますが,実際には,自宅での経口摂取にこだわって数時間かけて介助する生活に疲れ果ててしまった家族もいるわけです。自宅であれ施設であれ病院であれ,経口摂取できない状態になった場合にも医療的介入を行わず次第に衰弱していくのを見守るためには,覚悟だけでなく実際にそれを支える場所と人が必要ですし,現状を見て感じる「不自然さ」があるとしたら,そういったリソースの不足も要因なのではないかと思います。

胃瘻による栄養を行うべきか否か個別の状況を踏まえて判断するしかない以上,社会的合意としての「胃瘻の是非」を議論する意味についは個人的には率直なところあまり意味がないような気がしています。もちろん個別に適切な選択を行うための枠組みは必要でしょう。胃瘻を選択「しない」ための障壁があればそれを取り除くことは大事ですが,そのために胃瘻全般に対して否定的な印象を与えるべきでないと考えます。

このところ気になるのは,医療を受けることの「不自然さ」を強調する論調があることです。「不自然さ」を否定することで,苦痛を少しでも和らげるために行う治療までが忌避されるようなことがあったとすれば,それは過度の自然志向,あるいは自然信仰と呼ばれるものになりかねません。胃瘻による栄養が残された時間をより良く過ごすための手段のひとつに過ぎないのと同じように,自然の成り行きに任せて見守るという方針が目的そのものではない筈…ではないかと思います。