自己決定とパターナリズム

医療の場で検査や治療の方針を決める際に患者さんの希望と医学的知見をどのようにすり合わせていくのかという課題が以前からあって、自由放任でも強権的でもない第三のアプローチとして「ナッジ」に興味を持ったのが10年くらい前で、ちょうど「実践行動経済学」が出た頃でした。

 自由主義を基本としながら、適切な選択アーキテクチャを提供することで本人にとって有益な選択を促すという考え方は確かにスマートで魅力的です。メディアで紹介されて流行になり、実際にもいろいろな国や地域の行政でナッジを取り入れているようですし、医療分野での応用に関する書籍も出ています。

医療現場の行動経済学: すれ違う医者と患者

医療現場の行動経済学: すれ違う医者と患者

 

個人的には、手法がスマートだからといって目的が正当化されるわけではないのでは…というモヤモヤがあって全面的には乗れず、たまたま目にしたシノドスの記事で紹介されていた「ナッジ!?」を読んでみました。

 行動経済学そのものの紹介というよりは、法哲学全体の中でのサンスティーンの提唱するリバタリアンパターナリズムの位置づけを解説していて、当方もキチンと理解できたか自信は正直ないのですが、少しは見方が広がったように思います。

個人の自由な選択を重視する立場と個人に委ねると本人のためにならないと考える立場の両者をいいとこ取りした結果、前者からは「無意識のうちに選択肢を設定されているのは自律を侵害されているのでは」後者からは「効果が弱すぎて目的を達成できないのでは」と、結局両者から批判されるのは仕方ないのかもしれません。おそらくはすべてではなくナッジの特性を活かせる事例を選んで活用されていくのでしょうけど、それでも誰がどう設定するのかという恣意性の問題は残るわけで、結局のところ、当方のモヤモヤはあまり解決されないままなのでした。

「反ワクチン記事」とメディアに関する私見

新型コロナウイルスの流行もまだ収束が見えない状況ですが、海外では日本よりはるかに大きな感染者数が出ていることもあり、異例の早さでワクチンを開発、そして実際の接種が始まっています。有望なワクチンについては、日本でも認可され、接種スケジュールが検討されているところですが、そんな中でワクチンに対するネガティブな報道がいくつか続けてあったようです。

新型コロナ「反ワクチン報道」にある根深いメディアの問題(ニッポン放送) - Yahoo!ニュース

佐々木)とても素晴らしいのですが、なぜか日本国内ではメディアの報道が異常な方向に進みつつある。AERAが、

『医師1726人の本音、ワクチン「いますぐ接種」は3割』 ~『AERA』2021年1月25日号(1月18日発売) より

佐々木)……という記事を出しました。“お医者さんなのにわずか3割しか打つ人がいない”ということを書いています。週刊新潮は、

『コロナワクチンを「絶対に打ちたくない」と医師が言うワケ』 ~『週刊新潮』2021年2021年1月28日号(1月21日発売) より

佐々木)……と言う記事を出しました。さらに毎日新聞が、(配信)元の記事はオリコンニュースなのですが、 『新型コロナワクチン、6割超「受けたくない」女子高生100人にアンケート』 ~『オリコンニュース』2021年1月20日配信記事 より

佐々木)……と。女子高生に聞いてどうするのかと思うのですが

飯田)サンプルも100人では全体を表しませんし。

佐々木)さらにTBSは、

『「自分たちは実験台?」ワクチン接種優先の医療現場から不安の声』 ~『TBS NEWS』2021年1月21日配信記事 より

佐々木)……という報道をしています。毎日新聞、TBS、AERA朝日新聞です。そして週刊新潮という、いわゆる新聞、雑誌、テレビから続々と反ワクチンの記事が登場しているという異常な状況になっているのです。

反ワクチンといってもワクチンを正面から否定するような極端な論調ではなく、なんとなくワクチンに抱いている不安を増幅するような感じですが、ヒトパピローマウイルスワクチンでの「実績」を思い出せば、メディアの影響によって接種率が落ちてしまい、結果として収束が遅れてしまうことは当然懸念されます。

なぜメディアがそうした記事を出すのかについては、

佐々木)もちろん会社としては儲けなくてはいけないというのはありますが、毎日新聞出身でずっと社会部で記者をやっていた身からすれば、そこまで金のことは考えていません。それぞれの記者、もしくはデスククラス、彼らがいちばん重心を置いているのは「社会正義」なのです。ですから、今回の問題はお金や利益のためという話ではなくて、「歪んだ社会正義の問題」なのです。

飯田)なるほど。

佐々木)ではなぜこの歪んだ社会正義、反ワクチンに行ってしまうのかは、なかなか分析が難しいのです。個人の経験から言うと、高度経済成長があった1960年~1970年の時代、日本は「電子立国」という言葉もあるくらい、テクノロジー中心で社会を回していた。1970年の大阪万博で「人類の進歩」、「科学万歳」と謳った世界で来たわけではないですか。それはそれで、我々の国に豊さをもたらし、経済大国になったのだけれども、それに対して批判的な姿勢を持つメディアというのが、当時の基調だったのです。

>飯田)豊かさは物質だけではないと。 

ということで、マスメディアはかつてのテクノロジーへの批評が成功体験となったまま変わることができないのではとの分析で、個人的には納得できるところだと思います。いわゆる「ハンロンの剃刀」でいうところの、医療を否定しようとする「悪意」よりは、現状を認識できない「無能」で説明すべきということになるのでしょうか。

悪意ではなくよかれと思ってやっているとすれば、損得勘定では動かないので、むしろ行動変容は難しいのだろうと思います。強固な成功体験から脱出するためには、結局世代交代を待つしかないのかな…とも思います。そのためには、旧世代の価値観に囚われていない記者が自身の組織の内部にいる「権力」と闘う必要があるし、専門家が記事の不適切さを地道に指摘することは、そうした世代交代を後押しする力になるのかもしれません。

感染症の世界史

 これまで買ったまま積んであったのをこの機会に読んでみました。

感染症の世界史 (角川ソフィア文庫)

感染症の世界史 (角川ソフィア文庫)

 

  人類の歴史は随所でさまざまな感染症が登場することは知っていたつもりでしたが,感染症を軸として歴史の流れを眺める視点は新鮮で,読んでいるうちにだんだん目に見えない微生物が人間を操って歴史が作られてきたような気になってきます。

 この本が出版されたタイミングでは今回のCOVID-19は当然まだ出現していません。本来は宿主の動物と共存していたウイルスがやがて人間への感染力を得て経済活動とともに各地へ拡大する…という流れは目新しいものではありませんが,一筋縄ではいかないのもまた同様です。

 感染の具体的な経緯を読んでいると,あたかも人間が感染を広げる意図をもって行動しているようにしか思えない事例もあったりしますが,感染拡大を阻止しようとそうした行動を禁じてもうまくいかないのもまた歴史の教えるところで,人間はそういう一見愚かにもみえる行動をしてしまう存在であることを前提に対策を講じる必要があるのでしょうね。