ジャーナリズム崩壊

ジャーナリズム崩壊 (幻冬舎新書)

ジャーナリズム崩壊 (幻冬舎新書)


日本の報道機関,とくに新聞とNHK実態を追及した一冊です。筆者のニューヨークタイムズ記者としての見識からすると,日本の報道機関はあくまで「日本独自のジャーナリズム」であっても世界基準の「ジャーナリズム」とはいえない,ということになるようです。ニューヨークタイムズが理想の報道機関かどうかは別にしても(本書では正直なところ理想化しすぎのような気はします),現実の問題として「記者クラブ」に依存する報道機関の閉鎖性と自己検証能力の欠如が社会全体にとって弊害となっていることは確かだろうなとは思います。


一例を挙げると,誤報つまり新聞が過ちを犯したときの対応は対照的です。ニューヨークタイムズの若手記者が捏造記事を書いて大問題となった(ジェイソン・ブレア事件)ときに,新聞社側は記者を解雇するだけでなく,後日詳細かつ徹底した検証記事を掲載したとのことです。

確かに,ジェイソン・ブレア事件で一端は売り上げを落としたタイムズだったが,検証記事の後は,再び売り上げを伸ばしている。さらに信頼度調査では,タイムズへの信頼度の数字は逆に上向いたのである。


つまり,読者からしてみれば,新聞が過ちを犯すかどうかが問題ではなく,その過ちを率直に認めるかどうかが重要だったのだ。


同様の理由で,日々タイムズを愛読しているものからしてみれば,訂正欄に載らなかった記事は,かなりの頻度で正確だと認めることができる。実は,連日そうした「訂正」があることで,少なくともニューヨーク・タイムズの読者は新聞はいつも間違いを犯すものだという認識に到達している。仮に,幼い頃からこうした新聞に触れていたとしたら,それは,極めて効果的なメディアリテラシーとなるだろう。


第五章 健全なジャーナリズムとは p209-210


日本の報道機関での実情はどうかといえば,当方がある程度妥当性を判断できる医療記事に関していえば,不正確・不適当な記事は少なからず見受けられますが,それに対して当該報道機関が訂正し,検証した記憶はありません。その代わりに情勢が変わったのを見極めた上で,まるで以前から承知していたかのように問題を指摘することは何度となくありました。

新聞は間違いを犯すたびに同じような対応を繰り返してきた。まずはミスを隠そうと試みる。それがかなわないとなると,別の記事でごまかそうとする。それでもばれてしまいそうな場合はできるだけ目立たないようにできるだけ小さく訂正記事を載せる。たとえ1面で大きく扱っても,訂正は3面の隅に小さく載せる。これで運が良ければ読者に気づかれない――。それが誤報における日本の新聞のモットーである。


第五章 健全なジャーナリズムとは p215


比較するなら,日本の新聞社が,読者にとって「新聞が過ちを犯すかどうかが問題ではなく,その過ちを率直に認めるかどうかが重要」とは考えないからこそ,自らの過ちを認めずに誤報を隠蔽するということになるのでしょう。言い換えれば,報道を受け取る側のメディアリテラシーが低いという認識が報道を萎縮させている,ということにもなるのかも知れません。


確かに日本の世論に自らの過ちを認めることが許されない風潮があることは当方も感じますが,とはいえ誰かが犯した過ちに対して,その背景を考察するよりも過剰にバッシングすることを優先して,結果としてそうした風潮を助長したのは他ならない報道機関であった訳ですから,この点に関してあまり擁護する気にはなれません。ましてその口で「まずは自分の間違いを認めて謝罪することが大事」なんて言われても説得力のカケラもないと思います。