ヒューマンエラーは裁けるか


ヒューマンエラーは裁けるか―安全で公正な文化を築くには

ヒューマンエラーは裁けるか―安全で公正な文化を築くには

専門家(医療従事者や航空機のパイロットなど)が犯したエラーに対して組織(あるいは国)はどのように対応するべきなのか,というのが本書の主題です。安全性を向上させるためには,原題にある"Just Culture(公正な文化)"が目指すものであるとして,公正であるためには「説明責任に対する要求が満たされること」および「エラーの説明が学習と改善に寄与すること」の両者が必要である,と述べています。乱暴に要約すれば,説明しなさすぎでは社会の共感が得られないが,あまり過剰に説明を要求するとエラーから学ぶチャンスを逃すことになり改善に寄与しないということで,結局はどこでバランスをとるかということになるかと思います。

具体的な事例も数多く挙げられていて,専門領域で生じた事故に司法や国家権力が介入して個人の責任を追及し,その結果「公正な文化」の形成が阻害される事例というのはなにも日本だけに限ったことではなく,そのことが深刻な問題として捉えられているのもまた同様であることが本書を読むとよく分かります。医療に限らず,専門領域で起きた事故には,見方によって複数の「真実」が存在し,ときには互いに矛盾しますから,ある単一の説明が正しいと決めつけて白黒つける(司法手続きはまさにこれにあたります)ことは解決しないだろうという主張には同意します。

本書の内容を紹介するとあまりにもエントリが冗長になってしまうので(いったんは書いたのですがあまりに長すぎたので没にしました),印象に残ったフレーズをいくつか引用するにとどめておきます。

公正な文化は,絶対的なものでなく,妥協に関するものである。公正さを達成するということは,白黒つけるということではない。歩み寄って解決することを求める。公正な文化における裁定は押しつけるものではなく,取り引きされるものである。裁定を求めるこの取り引きは,すべての関係者が利益を得るには何が最善かを発見するプロセスである。

第2章 失敗をとがめるべきか許すべきか? p65

単一の正解がない以上,解決には歩み寄りが必要ということになるのでしょう。

ある業界における「普通」と「過失」の境目,あるいは「適切な技量水準」と「無謀な行為」との境目は,限りなくあいまいなのだ。この種の議論を終結させることは誰にもできないだろう。

第7章 悪いことをしていないならおそれる必要はない? p153

故意による行為や悪質な過失なら司法の介入は当然,と言われますが,それでは誰がそこに線を引くのが妥当なのでしょうか。

事前審理は適切な門番としての機能を果たし得る。事件が検察官によって捜査される前に,様々な利害関係を評価・検討するからである。だが,その審理にはすべての利害関係者の声を十分に反映していることと,特定の関係者もしくは利益団体によるロビー活動から影響を受けないことが重要である。事前審理はヒューマンエラーの犯罪化に対する比較的新しい解決策なので,それがうまく機能するか否かを検証するための実例はまだ多くない。

第11章 公正な文化に対する三つの問い p215

理屈ではうまくいくようでも,現実には課題が山積しています。第三者機関をつくればそれでいいとはならないのは当然のことです。